船戸優里さんの著書を読みました。

(著書の内容について触れています。)

結愛ちゃんの思い出を語る場面はとてもナラティブで、涙が滝のように流れました。

加害者であることは、言うまでもなくご本人も受け入れていて、

その上で大切な大切な子供を亡くした被害者の立場でもあります。

自分の命よりも大切な子供が死ぬということは、最も辛い仕打ちです。

自分が死刑になるよりも残酷なことです。

なぜ優里さんはこんなに辛い目に合わなければならなかったのか。

こんな問いはあまり意味のないことかもしれませんが、考えざるを得ませんでした。

その中で答えを探るとしたら。

この方の人生の主体はご自身本人ではなく、

常に他の誰かであったように感じます。

そりゃ自分主体の人生は、辛い目に遭っても引き受けるのは自分だし、人を傷つけてもそれは自分が責任を負わなければならない。

全てにおいて、起点も終点も自分です。

「私が始めたことを、私が引き受けます。」

自分主体の人生は、自分自身の責任者であるわけです。

だけど、傷つくことが多くなると、他者を主体にしたくなることが増えて来ます。

「あの人にこう言われたから、こうしました。」

「友達に怖いと言われたから、何も言わなくなりました。」

時には、こういう技法は自分を守るためには必要な手段です。

でも、子供を守るためには、この手段を取るべきではなかったのではないかなと思いました。

ご本人は著書の後半で「強く強く強くなりたい」と言ってますが、

こういう気持ちになれたこと、

結愛ちゃんが、こういう気持ちをくれたことを、

ご自身の今後の人生の支えとか拠り所にして、

今後も生き抜いていって欲しいと思いました。

外に出てくる時にはまだ30代前半です。

もう一度やり直していけるはずだと思います。